雨の日曜日のような

現在の容姿について

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最近、自分の記憶力の衰えが怖いくらいひどくなってきております。

毎日色々なことを考えて、それなりに気付きもあるのに、すぐに忘れてしまいます。

そこで、今回から現段階での気付きや考察などの記録として残しておくための記事をいくつか書こうと思います。

完全に自分が読む用の記事です…。

 

「現実は今までの自分の選択や意図、願いが現象化したもの」ときいたとき、嘘だ!こんなこと望んでいない!と必ずと言っていいほどエゴが抵抗するので、色々考えてみました。

よく達人がおっしゃっている「別の領域」では、全ての願望が既に叶っているそうです。

「別の領域」に立てていない現時点の私のいるこの世界も、既に叶っている世界なんだそうです。

 

幼少期の私は、同じ保育所に通う子供のママさんに「家でうちの子がこはしちゃんの話ばかりするからどんな子かと思ったら、本当にかわいいですねえ」と母が声をかけられるくらいだったらしい。

親戚からもかわいがられており、母は子役デビューを真剣に検討したこともあったらしい。

その時期のことはぼんやりと覚えているが、自分がかわいいとかかわいくないとか以前に、容姿の美醜の概念が全く分かっていなかった。

だから、なんかよく分かんないけど自分はかわいいらしい、としか思っていなかった。

しかし、大きくなるにつれて、人間関係がうまくいかなかったり、異性に拒否されたり、親や先生に叱られたり、そういった「不足」の経験の中に、私が自分の容姿を嫌になるきっかけがあったのかもしれない。

私がこんな容姿だからだ。

そんなエゴの言葉を自分の声だと思い込んできたのではないか。

芸能人を見て「綺麗だな(それに比べて自分は…)」と思ったり、同じクラスの女子を見て「かわいいな(自分みたいなブスは目立たないようにしよう…)」と思ったり。

()の部分が実現してきて、今見ている「現実」がある。

それなら、親戚や兄弟から「昔はかわいかったのに」と言われたり、友人から「Aちゃんはかわいいけどこはしはかわいくないな」と言われたりした経験も自分の思考が原因だったんだと腑に落ちる気がします。

他人=自分ですしね。

ですしねって言いつつまだ完全に理解していませんが。

だから今のこの容姿も、私の思考がつくりあげたもので、言い換えれば願った通りの容姿…という解釈をしました。

 

でも赤ちゃんの段階では容姿の美醜が分からないどころか自我さえ芽生えていないけど、それって適当な容姿で産まれてきているということなのだろうか…という疑問が浮かびました。

自我が芽生えていないということはそれこそ究極の「別の領域」なのではというややこしいことは置いておいて。

赤ちゃんは愛されるために、親の遺伝子を使って親そっくりに産まれるようなシステムになっていて、それはきっとこの世に生を受ける前の自分が望んだことなのではないか…と、どうしてもスピリチュアルな話になってしまいます。

自分で言っておいてなんですが、この考え方はあまり好きではありません。

親に似ていようが似ていなかろうが、親がちゃんと子供を愛さない場合もあるからです。

う~ん、なんだか潜在意識的に全く見当違いな考察をしている気もします。

 

みなさんはどのように考えますか。

正直、考えなくても大丈夫だと思います。

考えても考えなくても叶うと思うので、自分から迷路に迷い込む必要なんてないですよね。

 

ここまで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございます。